1993年新聞投稿集(前半)

お年玉のこと                  1993年1月5日

我が家には、7歳、5歳、3歳の子供がいる。その子たちに、それぞれ500円玉のお年玉を包んでやった。私の甥、姪にも同様にして、高校生には2000円、中学生には1000円、小学生以下には500円玉を包んでやった。

私の子供達は、親戚の人たちも含め、9個のお年玉をいただいた。小学校1年生の長男は、「お父さんが一番貧乏やねえー。500円しかくれんちゃ。」と言う。3歳の長女は、金額の大小には全く無頓着だ。違いが分かっていない。貰うときは、お兄ちゃんたちと同じように貰いたいらしい。そしてお母さんとおばあちゃんに1000円づつ配ると言い張る。結局は我が家では、それぞれの子供名義でしっかり貯金している。

各々の家庭で、お年玉の金額を決めるわけだが、これは気持ちであって金額の大小は論外だ。毎年の新年のニュースは、このお年玉の金額のアップをいちいち取り上げているが笑止千万である。神社で賽銭を投げるようなもので、いちいちいくらと記載するものではない。


 

 

夫婦別姓について                1993年1月6日

1月5日の社説、夫婦別姓論議をしようという全体の趣旨には賛成だ。しかし、97%のカップルが男性の姓を取っている点については疑問に思う。婿養子はもっと多くないだろうか?この婿養子制は、日本の社会が家を基軸にしてきた名残だが、西欧社会が男系社会であることに比べ、苗字の継続・温存に非常に貢献した。(西欧社会が男系社会だと言ったら、逆説みたいでピンと来ないかもしれませんね!)

19年前、米国に1年間ほど、会社より派遣されていたが、そのとき女の子を3人持った母親に自分たちの姓を継がせるかと質問した。答えは、きっぱりとノーであった。

15年くらい前から米国では夫婦2人の姓を連記する者も出てきた。夏休みの生徒を連れた米国ホームステイで、夫婦2人の姓の連記の例に遭遇し、私は運転免許証で確認したものだ。

日本は江戸期では結構自由なのだが、明治5年の壬申戸籍でしっかり書き方の通達が出たようだ。



華々しく写真年賀状               1993年1月6日

いろんな年賀状を頂く。各人、この数年来、自分の型をしっかり保っている。活字印刷あり、版画あり、筆あり、プリントごっこの印刷あり。バブルの崩壊で、さすがに写真年賀はたったの2枚だった。我が家の年賀状は、子供3人がたまたま満7,5,3歳になったので、世間の流れとは逆に華々しくお正月らしい写真年賀状を作った。永久保存して貰えたら、とても嬉しいですが。

                      【読売新聞 1月12日掲載】


 

 

 

 

鬼                          1993年1月7日

鬼というと、伯母の話を思い出す。

「賽の河原の石積み。私が石を積んでいたら、鬼が来て、積み上げた小石の塔を壊す。その鬼が私の弟よ。」

伯母の弟とは、すなわち私の父である。

一昨年、2人とも鬼籍に入った。人間社会だからこそあり得た絶妙のコンビであった。2人は、前世で夫婦だったのかもしれないと、母は言う。

伯母の死のちょうど1ヶ月後に、父は亡くなった。午前と午後こそ違え、ほぼ同じ時刻に亡くなった。伯母の四十九日法要に予約していた日がそのまま父の葬式の日になった。

私の親は、父(履物店、農業)、母(ゴルフ場キャディ、農業)、伯母(小学校教員)の3人であった。表通りでは、下駄屋の子、裏の田んぼでは百姓の子、そして子供のない伯母は私が生きがいだったので、学校や教員旅行に私を連れて回ったものだ。

あと半世紀内には、私も同じ鬼籍の仲間入りをするが、三途の川の河原で2人がどうやっているか確かめてみたいものだ。



七草粥                        1993年1月10日

生まれて初めて、七草粥を食べた。正月の7日に、学校の近くの行き付けの食堂で食べた。400円の昼定食が安くておいしいのでよく利用する。

この店では、逐一、味噌を入れて味噌汁を作る。豆腐が薄く切ってあるのがとっても品が良く、味噌汁の温かさと味が私の好みに合う。また、さんま定食には、大根おろしがついている。その場でおろす大根おろしがうまい。

七草粥はなじみの客にふるまわれたようだ。“せんまる”のおじちゃん、おばちゃん、今年も元気で、あっちっちの味噌汁を作ってください。


挑戦                         1993年1月11日

人は何かに挑戦しないと生きてゆけない。私は、挑戦の具体的な目標を設定する。今年の目標は、近くの369Mの城山に月1回登ること、温水プールに週1回行くこと、「こだま」欄に週1回は投稿すること。

北九州市の高田工業所の社内ギネスブックには驚いた。毎月1回400ccの献血をして、今131回目というのが、ギネス1位だ。私も献血は学校に勤務して毎年連続9回やった。勤務している間は、少なくとも年に1回は献血を続けるつもりだ。

資格に関しては、私は不動産会社総務部と電機メーカーの海外事業部で働いていたので、多種多様だ。資格取得の順に記すと、運転免許、宅地建物取引主任者資格、日本損害保険協会普通資格、実用英語検定試験1級、商業英語A、中学校(社会)教員免許、高校(英語)教員免許。


朝ごはん                      1993年1月18日

クラスで、味噌汁を食べている人の数を把握した。47人中14人、思ったより多い。4年前に夏休みに米国のカリフォルニアにホームステイしたが、朝はシリアルと牛乳のみであった。火を使わない。完全な手抜き、効率主義に驚いた。

朝ごはんで、味噌汁がついている人は、自分の家庭を自慢していい。味噌汁は、何度も温めてはおいしくない。温まった最初に、みんながそろって食べると、味噌汁とほっかほっかごはんがとってもおいしい。


言葉遣い                    1993年1月20日

一昨年まで学校で生徒から「むかつく」とか、「おまえ」とか言われたことはなかった。「むかつく」は、生徒同士の間で、又、先生方の悪口を言ったり、捨て台詞として誰に言うとはなく使っているのには気が付いていた。それが何と私に直接、「むかつくったい」ときたので、クラスのみんなに、この機会をとらえて意見を書かせた。1割の子は、この言葉の必要性、妥当性を書いていた。大半は、人前で使う言葉ではないと認識していた。1割の生徒は、「おまえ」と言わせる原因を作った先生に元凶があると主張。9割の生徒は、目上の人に「おまえ」と言うのは常識はづれ、絶対使ってはいけない言葉だと断言。

傾聴に値する意見の一つは、次の文言。

「先生方もおまえという言葉を使われる。先生方がそういう言葉を使わなければ、生徒たちも使わなくなる人も出てくるのではないだろうか?」


受験                      1993年1月21日

昭和44年3月3日朝、福岡市六本松の九州大学教養部に受験の為、予定通りに到着した。ものものしい雰囲気で異様さを感じた。何と、学生が前夜から教養部の建物を占拠していた。私は2年間浪人してやっと待ちに待ったその成果を見せる本番を台無しにされた思いで、占拠学生に対して、物すごい腹立たしさを覚えた。

試験場は急遽、天神近くの予備校英数学館に変更され、2時間遅れで試験が実施された。2日間、英数学館で試験を受け、食事は天神のど真ん中の岩田屋の食堂で一人黙々と食べた。

外交官になるには法学部という思い込みがあって、現役で九州大学の法学部、そして一浪して東北大学の法学部と早稲田の三つの学部を受けた。どれか一つには納まる筈が全部滑って結局地元の九州大学の経済学部に二浪というハンディを背負って入った。お陰で、世にも稀な、試験当日に試験会場の変更というハプニングに出くわした。


 
人間皇太子                   1993年1月25日

皇室会議後の皇太子と雅子さんの会見を、土曜の夜の「ブロードキャスター」で見た。新聞で読むのとは違って2人の応答のすばらしさが実感できた。

私は、人間皆平等論に立つので、天皇家を特殊の地位に置くことには反対だが、2人の会見を見て、皇太子はよく自分の立場を理解していると感じた。日本国憲法で公務に就く宿命の立場の理解があった。人間天皇の宣言から約半世紀、美智子皇后の直接の子育てで、1個の悩める人間としての皇太子の存在がある。

けたはずれて力量、美貌,容姿が優れているスーパーレディの雅子さんには、似合いの男性がいなかったことが、宮内庁、皇太子サイドの勝因につながったと思う。

結婚後も、マスコミは、雅子さんを雅子様に変えないよう切望する。さま呼びは、皇室を国民からかけ離れたものにする。


 
戻ってきたエアメール          1993年1月26日

オランダにいるヘルモンド夫妻。彼らは一昨年、私の家に3ヶ月間滞留していた。合気道を修業するために。夫はホテルマン。妻は看護婦。共通点は合気道だった。

彼らが日本を去って、しばらくして私は彼らを写した写真を送ったが、届いていないようだった。その後、オランダから送られてきた人形の返礼に、博多人形を送った。フランス旅行から帰って、オランダの郵便局預かりで、翌日には日本に返送予定というタイムリミットの日に人形を受け取ったという内容の手紙が来た。

そして、昨年末に写真年賀状を送ったら、宛名不明で返送されてきた。「45A3」を「USA3」と私が読み間違えたためだ。彼ら流の書き方があるので、しっかり読み取らないと写し間違える。ミスコミュニケーションも、こんなちょっとしたことから起こるものだ。

郵便物には必ず差出人の住所氏名を記すべし。海外からでも、届かない場合は返送される。万国郵便連合の正確さに感激。



都会の暖房暑すぎます          1993年1月15日

成人式の日の天神地下街は食事時、振袖姿があちこちに見られた。外はあいにくの小雨。みんな地下にもぐりこんだようで、たくさんの振袖姿を見た。

地下街、イムズ、天神コアと家族5人で見て回ったが,暑いのなんのって、宗像の城山の麓から出てきたので、5人ともセーターとオーバーを着ていた。その上、雨だったので各自傘も持ってきた。地下街や建物の中ではセーターもオーバーも要らない。子供たちが7,5,3歳と小さいので、彼らの不要物を私が持つ羽目になった。

軽食喫茶では、たいていの客はアイスコーヒーかアイスクリームを注文していた。私はホットコーヒーを頼んで失敗した。ここは夏なのだ。何というエネルギーの無駄遣いだろうか?

振袖姿のお嬢さん達を見て、暑いだろうなーと気の毒な気がした。

                   【西日本新聞 1月20日掲載】


 
スキー                     1993年1月26日

福岡に住んでいる時は、スキーに行ったことがない。20代の大阪でのサラリーマン時代によくスキーに行った。バスや車で信州の白馬などに2泊3日で行った。暮れから正月にかけて帰福しないでスキーを楽しんだこともある。シーズン中、多いときで10日程楽しんだ。

大阪の茨木市から、滋賀県の琵琶湖バレーまで、2時間で行けた。日帰りでスキーを楽しめるのだからうらやましい地の利だ。

リフトを使って、頂上で景色を眺めるだけで、一面雪景色の大パノラマが広がる。上りはみんなリフトを使うのだが、スキーを滑れない人や怪我をした人はリフトで降りる。めったに下りの利用者はないが、敢えて雪山の大パノラマをお勧めするので、安全な降り方として付け加えたい。景色を楽しむためだけにリフトを利用するのもいいではないか?

子供、妻がいるとなかなか自分一人スキーに行くというわけにはいかない。行くなら、家族5人一緒だ。


 
偏差値批判は何かおかしい      1993年1月26日

昨年の鳩山前文相の業者テスト・偏差値批判発言を下敷きにして、高校教育改革推進会議が学校現場からの業者テストの追放を文部省に提言した。文部省は、「先生たちには、業者テストや偏差値に頼らない進路指導の先頭に立って汗をかいてもらう」つもりだという。

すべてのマスコミが偏差値=受験競争=学歴社会という連想で悪者扱いしている。どこかがおかしい。偏差値は、現段階での知識の相対的評価である。業者テストは自由主義の所産である。

国民は偏差値が高い学校が人格的に優れた者の集まりとは思っていない。日本の入試制度で、とくに国公立校においては、客観的に公平に知識だけで合否を決めてきた。情実の入る余地がなかったことで国民は安心していた。

                     【西日本新聞 2月1日】



テレビ                     1993年1月27日

昭和34年1月17日、冬の寒い日に祖母が亡くなった。父は、祖母の亡くなる前にテレビを買ってやればよかったと何度もつぶやいていた。

小学校高学年の頃、弟妹の後についていって近所の座敷に上がりこみテレビを楽しんだ。10歳ともなると、恥ずかしさを知って躊躇することもあった。それに比べ、弟妹は無邪気にどこへでも上がりこんでいた。

当時、隣組10軒に約1軒の割でテレビを所有していた。かなり遠くの他の組までテレビ見に行っていた。テレビのある家は、よその子供でいっぱいになり、あぶれた子供達は別の家を探した。ほんとうに地域が子供たちをあたたかく見守っていた。古き、良き時代であった。

私の中学時代にテレビはまたたく間に日本国中の必需品になっていった。そして私の高校1年時、オリンピックはカラーでという時代に突入していった。


 
皇太子と貴関の2組の報道について            1993年1月30日

「私が一生全力で守ります」発言でスーパースターになった皇太子殿下。スーパーレディの雅子さんは一躍ファッションショーのトップモデルになられた。

「もう愛せなくなった」発言で男を下げた貴の花。破局会見で恨み言を言わず、涙も見せずにけなげに悲恋のヒロインを演じた宮沢りえ。

新聞のデスク日記で、皇太子と雅子さんの会見には、宮内庁の演出、演技指導が事前に十分あっていると知って、目からうろこが落ちた。「ローマの休日」を皇太子と雅子さんにプレゼントしたいものだ。

宮内庁同様、殻を閉ざしている相撲界。今回の貴の花の破局会見は演技指導がなっていない。もっと師匠の藤島親方は手取り足取り教えてあげないと、相撲はできても社会常識のない坊ちゃん大関だと笑われよう。

人間は演技ができる。演出もできる。そして、なによりも先を読むことができる。人間とはしたたかな生き物だ。


 
教え子の記事に興奮              1993年1月30日

先日のこだま「若者特集」には感激、興奮した。私のクラスの生徒が2人も載っていた。夏休み前に学級通信でみんなにこだま投稿を勧めた。

つい最近、やはり、学級通信に矢幡寛さんの「満30年の投稿」を載せて、チャレンジし続けることの大切さを説いたばかりだった。生徒諸君が今から投稿人生に入って30年たったところで50前である。私は73歳になっている。だから、生徒諸君に、それこそ、50年間継続投稿を勧めた。掲載されるかどうかより、自分の今の考えを記録することの大切さを説いた。

私も、投稿,登校(とうこう)で頑張るから、卒業してもこだま欄で会おうと言ったのが、学年末最終日のホームルームの時。教え子の記事を新聞で見つける喜びは、たとえようがない。最高。

                   【西日本新聞 2月13日掲載】


NHKのやらせに落胆              1993年2月4日

NHKのドキュメンタリー番組「奥ヒマラヤ 禁断の王国・ムスタン」のやらせ内容に驚愕した。従来のNHK特集は平成元年にNHKスペシャルに名称を変更。

9年前の小錦特集、フィクサー児玉誉志夫特集に強い感銘を受けた。さすがNHK, 時間と金と情報網を駆使して出来上がったものは、修士論文、博士論文に匹敵するといつも称賛していた。NHKのドキュメンタリー番組には絶対の信頼を置いていた。

昭和61年11月放送のNHK特集「課長はこうして選ばれるーあるハイテク企業の人事戦略」に、私の義弟が主役3人のうちの1人として出ていた。富士通の管理職昇進試験の過程を追った内容だった。上司による選抜、6科目の通信教育、重役の前での研究論文の発表、以上の3関門をパスするのに半年かかる。重役の前での発表に備えて、義弟の競争相手は、自演を奥さんにビデオ撮りさせていた。自分の発表を何度も点検していた。その時は、そのシーンに大変、感動した。しかし、「奥ヒマラヤ 禁断の王国・ムスタン」の“やらせ”が明らかとなった今、「課長はこうして選ばれるーあるハイテク企業の人事戦略」も、“やらせ”があったのではと疑ってしまう。

たった1回の“やらせ”で、NHKの全作品まで、そんな目で見られる。看板を背負っていることの意味を責任者はしっかりと把握すべきである。


時事川柳                    1993年2月12日

秩序維持 仕事に励み 禁固刑

偏差値が 諸悪の元と お触れだし

三度目も 中は見せない 金屏風   【読売新聞 2月16日掲載】

憲法は 国際貢献 約束す

自由競争 家電販売で 自己崩壊


時事川柳                    1993年2月13日

私立入試 まずおさえたい 十五の春

文部省 偏差値退治に 総合学科

三十四歳 市長誕生 我と比す


 
定年退職後は毎日登山           1993年2月6日

今年の年間目標は、月に1回の城山登りと、週に1回のプール通い。1月は元旦に登った。2月は早めにと第一土曜に登った。初夏の気温で暑く,風が強かったが、山の中は木立ちで風もなく、素晴らしい登山日和だった。2月4日朝の冷え込みは宗像市で零下3.9度を記録している。宗像市は福岡市、北九州市に比して、雨の量が多く気温が低い。その宗像市で2月6日の午後3時ごろは城山山頂(369M)で18度だった。家に帰り着いて温度計を見ると、やはり18度であった。我が家は、よそより2~3度寒い。だから、標高差の気温差は丁度プラスマイナスゼロだ。とにかく、2月4日の朝の零下3.9度と、2月6日の午後3時ごろ18度を差し引きすると、気温差22度である。

いろんな人が毎日城山に登っている。登山者名簿に記帳すると、2月6日はその日の200番目だった。私のあこがれの「城山を守る会」常連の80歳代のAさん、Bさんは今日は未だのようだ。前日を見ると、年間32回、33回と書いてあった。ほとんど毎日登られている。私も退職したら、毎日登りたい。


甥の合格に安堵                 1993年2月9日

甥が西南学院高校に合格した。嬉しくて嬉しくてたまらない。昨年1月末に甥は父親を亡くした。私はこの1年間、どうなることかと心配していた。

私の弟は、北海道への職場旅行中に他界した。私と母、弟の嫁、その子供たちで函館空港まで遺体を引き取りに行った。悪夢の日々の後、当時小5の甥(西南学院高校に入った甥の弟)は登校拒否になったらしい。そのリハビリと思うが、昨年の夏休み、受験を控えた中3と、小6の兄弟はまるまる40日間カナダに研修旅行に行った。

夏休みに日本にいなかったこと、そしてバイオリン、フルート、ピアノ、水泳、剣道をいまだに続けていることから、てっきり高校受験はあきらめたのかと思っていた。甥の西南学院高校合格を知って、本当に嬉しくてたまらない。響くん、合格おめでとう。顔も声も、私の弟そっくりの甥である。24年前、ラジオ放送で、弟の北九州大学合格を2人で聞いたあの時のことが思い出されて泣けてくる。

甥にとって血のつながった叔父は私一人だ。私は弟を非常に頼りにしていた。この世から消えた悲しみは、1年経っても未だ失せない。


 
教育の究極の目標              1993年2月13日

生徒の投稿を新聞紙上で見つけたときの気分は、最高である。教育の究極の目標は、自己表現力のレベルアップではないだろうか?

私は英語の授業中に本誌気流欄に掲載された私自身の投稿文「個人主義と団結が両輪のアメリカ人」を読んで聞かせたことがある。そして、他の投稿者のアメリカ人観も紹介した。また、1月20日の田中重清さんの「投稿500回」、2月9日の大久保宏子さんの「めざせ、さわやか投稿」、城野文昭さんの「川柳作りのすすめ」を学級通信に利用させてもらった。巣立つ生徒諸君が社会人として自立する格好の手段として投稿を勧めている。卒業後も仲間の消息を新聞を通して知ることができる。

「川柳」は今まで作ったことがなかったが、城野さんに刺激されて投稿した。いずれにしろ、読者投稿欄は老若男女一般私人の生の声が聞けるので、とってもためになる。

                    【読売新聞 2月18日掲載】


時事川柳                    1993年2月16日

ボスニアに 国連管理 ロシア加味

外相の インフルエンザ ガリ旋風か

知事選の 自社公民に 嫌気さす


 
時事川柳                    1993年2月17日

エイズ防止 純潔論争 呼び起こす

遊説で 国民教育 クリントン

平和維持 どこまで曲げる 第九条


 

時事川柳                    1993年2月18日

宮沢は りえ喜一より 賢治さん

自衛隊 どこまで派遣 平和のため

びょうぶ裏 三億円と 五億円

地下水の心配                  1993年2月21日

私達の町に大学がきて、四半世紀がたつ。城山の麓の大学から降りて行った所に、昔の筑前21宿の内の一つ、赤間がある。我が家は300年の古さだ。昔からの古井戸で小学校時代は手動ポンプで汲み上げていた。中学校時代からはモーターで汲み上げていたが、いつだったか、水が枯渇して別の場所にボーリングした。

数年前、裏のアパートの水道から濁った水が出てきた。業者は、ある程度出したら、又りっぱな水になりますと言う。そのときは、業者の言ったとおりだった。そして、先日、水が出なくなった。

城山の登山口にみんながポリ缶をもって水を取りに来る。そのせいか、水が枯れると言う。大学、城山水の取り過ぎ、昔の農業用水の溜池の廃止、この3つが地下水脈に大きな影響を与えているに違いない。


 
時事川柳                    1993年2月22日

花粉症 排気と共に 三十年

アストロD 世界の夢乗せ 一直線

神楽舞い 小説にして 記録され


 
同級生                     1993年2月22日

20代を大阪でサラリーマンとして過ごし、30歳になって大学院に行った。ユーターンは34歳だった。一度レールから踏み外れて、やっと35歳になって定職にありついたので、昔の同級生との結び付きはなくなっていた。

同級生とは,よきにしろ、悪しきにしろ、死ぬまで競争相手であろう。そして最も良き理解者であろう。同じ時代を生きたということの意味は大きい。


 
公私混同                    1993年2月23日

クリントン大統領は、妻ヒラリー夫人を健保問題の委員長に任命した。このニュースと、7年前私の学校

でのフォークソング部のギター講師として私の妻に助っ人で来てもらったことがダブった。私は音痴で楽器に疎遠であった。妻がたまたま、西南大学でギターをしていた。ヒラリー夫人も私の妻も無給である。批判する人は、これを公私混同と呼ぶ。

小さな会社、例えば有限会社や個人企業では従業員は家族全員ということが多い。ここでは、みんな家族ぐるみで働く。公私の別なく働く。

米国の健保委員会の場合も、私の学校の場合も、節約路線での選択であったと思う。公私混同は悪用という意味を含んでいる。滅私奉公になると、これは公私混同にあらずして別のものである。滅私奉公が成立するためには、雇ってもらっているという恩義が前提だ。私は、35歳で教員に拾ってもらったという恩義をもっている。


 
偏差値は単なるデータ          1993年2月23日

偏差値とは、現段階での知識の相対的評価である。情報社会で、どこにでも移転・転職の保証された社会では、広域を網羅する業者テストが必要となる。いわば業者テストは自由主義の所産である。

偏差値は単なるデータである。それに反対なら利用しなければいいのだ。高校や大学進学にもこだわることはない。私自身、通信教育で教員免許を取ったし、大学の夜間部で講義をしたことがあるので、偏差値不要の大学の存在を知っている。20代では、サラリーマンをしていたので、学歴、偏差値などが社会で通用しないことを知っている。マスコミは、このことをもっと世の人に知らしめるべきである。しっかりと、キャンペーンすべきである。

文部省べったりのマスコミを強く叱責したい。教育とは何かをじっくり考えることが大切。そして各人にいろんな学校の、企業の、選択の機会を与えることが進路指導にとって大切と思う。

                      【毎日新聞 2月26日掲載】


捕鯨再開、大賛成                1993年2月25日

「商業捕鯨の再開」(2月17日付社説)に大賛成。こだま欄2月24日付「捕鯨に工夫を」では、矢ガモ騒ぎの影響で一つの方作が示された。ただ、人間と、食される動物との歴然たる差異、原点を忘れないで欲しい。

現在、牛、豚、鶏、馬などは育てる人、殺す人、販売する人、食べる人と分業が徹底している。消費者は殺す現場を見ない。昭和30年代までは、田舎では鶏を飼うのは当たり前。自分の家で締めて料理した。これが、人間と、食される動物との原点である。

鯨漁は江戸期から盛んで、分業が進んでいた。黒船のペリー提督は鯨油のみ取って、その他は捨てていたが、日本ではすべて利用し、骨は鯨墓に埋めた。生きとし生けるものを大事にするとはこのことだ。

養豚、養鶏の飼料を考えるとき、捕鯨は真の地球環境保護につながる。以前、“コラム春秋”でC・W・ニコル氏の捕鯨擁護論を外務省がパンフで世界に紹介している話を読み、大変共感したことが思い出された。


 
時事川柳                        1993年3月12日

首相答弁 聞くほど募る 怒りかな

隠し金 みんなで分けて 減税だ

岸に安倍 小針人脈 今は闇


私の漢字マスター法 by 読売新聞「気流欄」    【1993年3月11日読売新聞より】

高校生・石崎あづみさんが「解放されたい漢字の勉強」のテーマで、漢字は覚えるのが難しく高校のテストには泣かされる、漢字の勉強から解放されたいとの意見を寄せられた(3月3日付気流欄)のに対し、石崎さんへの激励や漢字の習得法、重要性などについての投稿が相次ぎました。本日は、これらをまとめて掲載します。


覚えるためにテストは必要 by 田中真紀(高校生、18歳)

【1993年3月11日読売新聞より】

石崎さんとは同じ高校で学んだ(2人とも今月3日が卒業式)ので、私も意見を述べさせて頂きたい。私は高校で実施される漢字テストは、なかなか良い制度だと思っていた。テストがなければ漢字を覚えようとはしないのではないか。

しかし、ただテストで良い成績を収めることだけが目的だと、全然意味がない。社会に出る人もそうでない人もみんな、ある程度の漢字の知識は必要だろう。漢字の勉強は怠らないようにしたい。そして、この高校に入学し、卒業できて本当によかったと思う。母校のこれからのさらなる発展を心より祈る。


漢字は日本人の教養の尺度         1993年3月5日

すばらしい特徴、方針は変えず (読売が付けたタイトル)

石崎さんは私の教え子であり、彼女の悩みが痛いほど分かった。私は、生徒たちが作ったクラス目標「あいさつをきちんとする」とは別に、自分の教育目標として「返事、漢字、掃除の徹底」を叫んでいる。

漢字は、日本人の教養の尺度とみなしうる。いくら英語ができても日本にいる限りは、日本語がしっかり出来ないと駄目だ。漢字によって日本語の習熟度が知れるだけでなく、広くその教養の度合いをも示す。

日本語の文章は、漢字、ひらがな、カタカナを主流に、時にはアルファベットも入れてできている。いろいろなものを受け入れ得る、すばらしい特徴を持っており、漢字を書くべき箇所にひらがながあると、不自然な気分になる。漢字のおかげで、ひとまとめの単語・文章として把握できる。速読には、漢字は欠かせない。

毎年、生徒たちのクラス目標は変わっても、私の漢字重視の方針はここ当分変わりそうにない。

                      【読売新聞 3月11日掲載】


 
漢字マスター法、温かい助言by 中野万徳(農林業、69歳)【1993年3月19日 読売新聞より】

3月11日の本欄を見たとき、思わず微笑んでしまった。「私の漢字マスター法」一色に彩られた紙面。つまり、高校生石崎あづみさんの漢字を覚えるのがつらいという悩み(投稿)に対し、その反響を漢字マスター法の題でまとめたもので、新聞もなかなか粋なことをやってくれるではないか、と感心したからである。

特に連日の紙面が金丸問題ばかりで、いいかげんうんざり気味であったから、一服の清涼剤ではあった。内容は、温かい細やかさというか、投稿各氏のご助言はかけがえのない金言であり、示唆に富んでいた。このほんわかとしたナイーブさに思わず感動させられ、ついついペンを取った。

あの、大作家の吉川英治さんは小学校卒業だが、一冊の辞書を完全にマスターすることから大成功されたと聞く。あづみさん、ご精進を。


 
贈る言葉は「新しい始まり」       1993年3月7日

卒業式の日は、担任教師をやっていて、しみじみ良かったと感じる日だ。3年前は生徒が自主的に卒業文集を作り、式当日。クラスのみんなで万歳三唱をして終わった。

今年は、「生徒と担任の新聞投稿競作集」を私一人で作った。生徒たち、私自身が新聞に掲載された投稿文をまとめたものである。

卒業式の日、式が終わった後のホームルームでは御父兄と同じく、「喜びと安堵の気持ち」で一杯だった。そして花束をもらうというハプニングがあった。ほんとうにうれしかった。

いつもは、「競争」と「協力」が社会の基本だという話で締めくくっていたが、今年は付け加えて、「コメンスメント(卒業)」の意味を説明した。卒業とは「新しい始まり」である、と。                      【読売新聞 3月17日掲載】


風紀検査に悩んだ3年間by 伊藤るみ(高校生、18歳)

【1993年3月13日 読売新聞より】

私が高校生活の中で一番いやでいやでしかたなかった風紀検査。今、卒業してやっと解放されると思うと、ほっとする。

検査の日は、朝から片手にはさみを持ち、鏡とにらみあった。特に私は生まれつきの癖毛なので、学年が上がるたびに証明書をもらっていた。先生が上から下まで見ている間、ほんの何分間かの時間が何時間にも感じられ、検査が終わると肩の荷が降りたような気分になった。

私のこれまでの人生のなかで、最も緊張した風紀検査、高校3年間、本当に悩まされました。

(この投稿掲載は、私の当時のクラスの18番目の掲載でした。ちょっとしたブームになったのです。)


所構わぬ携帯電話                1993年3月28日

 日曜日の博多からの帰りの電車の中でプライベートな電話のやり取りを聞き、思うところがあったので投稿している。

後方の席から男性の声で「戸籍謄本、健康診断書、成績証明書をすぐ用意しなさい。今は5時、ここは香椎。海老津でまた電話するから。」

こういうプライベートな電話を公衆の多い電車の中でしゃべるというのはいかがなものだろう。日曜日に書類をそろえようたって、どこも休みで無理な話。電車を降りてから話せば済むことだ。

車を運転しながらや、道を歩きながら電話機を耳に当ててしゃべっている人も最近、よく見かけるようになった。そんなに忙しいのだろうか?彼ら、「ながら」族は、食事も運転しながらや、歩きながら取っているのだろうか?見た目にも不愉快だ。初めは、道化の一種、新種ののぼせと思っていたが、社会現象としての流れになっているのならば、大いに嘆きたい。

                    【西日本新聞 4月2日掲載】


収穫なしでも釣り教育充実       1993年4月9日

子供たちに釣りの仕方を教えてやろうと、まず釣竿作りに山に竹きりに行った。ちょうど手ごろの竹が歩いて15分の所にあったので、3人に長い竹を引きずらせて帰った。

次は釣り糸と浮きと錘と針を買わねばならない。昔は町の小間物屋にあったが、今はその店がなくなっている。大きなスーパーマーケットに何軒も行くが、いずれも置いていない。帰路、釣具専門店を見つけた。

釣具を調えて、餌はスパゲティを用意した。いざ出発となったが、竿が長いので車は使用不可。歩いて行くとしたら、近くの川しかない。昔は近くに池が2つあったのだが、魚釣りをする環境がなくなっている。釣具を店に置いても買う客がいないはずだ。

汚い川で何も釣れなかったけれど、雲雀の美声と、今にも釣れるのではという緊迫感と、釣具作りと、釣り針が服について往生した経験とで、充実した日だった。

                   【西日本新聞 4月14日掲載】


 
バイク                     1993年4月10日

13年前、大阪に居たときにバイクを購入した。普通車のペーパードライバーだったが、講習も何もなくて、ただ店の周りを一周しただけで、そのまま私が引き取った。

嬉しくなって、早速、枚方市から茨木市まで遠出をした。翌年、普通車を購入したのでバイクは不要になった。次の年、ユーターンしたが、バイクは荷物として送った。私は普通車でカーフェリーを利用して帰福した。

故郷に帰っても、バイクは不要だったので、母に免許を取ることを勧め、バイクを譲った。母は当時60歳に近かったが、私があんまり強く勧めるので、免許試験に挑戦。ペーパーテスト2回で合格。それ以来、母は今もさっそうとヘルメットをかぶって乗っている。今日は古賀の小山田まで遠出したとかいう母の話を聞いていると、バイクを譲ってほんとに良かったと思う。母はもう68歳だ。


阿蘇                         1993年4月14日

恒例の春休みの家族旅行に阿蘇へ行った。ケーブルカー乗り場前の駐車場は無料だ。ここからケーブルカーにするか、マイカーにするか、それとも歩いて火口近くまで登るか選択だ。

2年前は、マイカーにしたが、今回は時間も十分あったので一家5人で歩いて登った。往復1時間。ちょうどいい運動だ。砂千里も間近くに見ることができた。なによりも、阿蘇が活火山で未だに木が生えない地域の何と広いことかをよく理解できた。

この徒歩道路で出会った人たちは、圧倒的に外国人が多かった。それもヨーロッパ系だ。英語、ドイツ語、フランス語、その他のヨーロッパ語を聞くことができた。息子が,「アメリカ人ではないね!」と私に言ったりで、国際感覚を身につけるのに格好の場となった。頂上では今度は韓国からきた人たちがたくさんいた。こちらは団体さんであった。



今年度の目標、生徒と教師と     1993年4月15日

新年度になると、いつも生徒諸君に、「今年度の目標」と題して作文を書かせる。そして、その骨子を生徒手帳に書かせて、各人の年間努力目標を明確にする。「無遅刻、無欠席を目指す」「成績を上げる」「勉強と部活の両立」「掃除に遅刻しない」「友達を沢山つくる」「授業に集中する」などいろいろだ。

また、クラスが一丸となって努力するクラス目標をみんなで討議する。昨年は「挨拶をきちんとする」であった。私は、ここ数年、自分自身のチェックポイントとして、「返事、漢字、掃除の徹底」に取り組んでいる。つまり、私自身の教育目標である。

返事は、挨拶を含むし、自己表現の原点である。漢字は、日本人の教養の尺度である。日本にいる限りは日本語がしっかりできないといけない。月1回の全校挙げての漢字テストではクラス全員に満点を目指させる。掃除は、協調の精神を必要とする。学校での掃除、隣組の共同清掃、家の中の整理整頓、いずれもみんなでやるものだ。社会に出ても、「返事、漢字、掃除の徹底」は通用する、必要物だ。

                    【朝日新聞 4月22日掲載】

昼食                      1993年4月21日

高校教員は、昼食をわざと早く食べるか、遅く食べる。なぜなら、生徒の昼食時間は生徒が質問に来たり、係の先生方の打ち合わせとなったりで、待機の状態を余儀なくされている。

弁当を持ってくる人、学校の食堂を利用する人、近くの商店街に食べに出る人と様々である。

結婚したての人の弁当は、愛妻弁当と呼ばれ、みんなが覗く。私は、愛妻弁当なるものを持ってきたことがあっただろうかと自問してみた。数回、弁当を持ってきたが、妻との何かの行き違いで、弁当を作ってくれないようになって久しい。学校食堂利用から、最近は、近くの商店街で食べている。

男子教員で自分で作る人が2人もいる。女子教員は、我が子が中学生や高校生の場合、一緒に朝、弁当を作ってこられる。彼ら、彼女達のバイタリティにただ敬服。


 
私とスポーツ                 1993年4月22日

スポーツは苦手だ。健康の為に、歩くことや山に登ることを心がけているが、なかなか時間が取れない。現代人は、肥満体も痩せすぎも、共に運動不足という処方箋で片付けられる。ジムやプールでお金を使ってでも、運動をするようにと勧められる。

この1年、月に数回、プールに通ったが、すこぶる体調が良かった。今までは風邪をひくと数日寝込むのが、半日の早退で済んだ。継続は力なり。大学時代まで、5メートルしか泳げなかったのが、今では何とか100メートルを泳げる。もっとも300も泳ぐと切り上げるくらいの体力だから、並以下ではある。

春休みに、有給休暇を取って近くの山に2日続けて登り、次の日は市の総合施設ユリックスまで歩いた。いずれも往復2時間のコースである。普段しなれないことをすると、途端に筋肉痛を起こし、ここ半月、腰痛で苦しんでいる。恥ずかしい限りである。


旅は若いときは一人で、結婚後は家族と         1993年4月22日

青春時代は、一人旅が好きだった。思いでの旅は、日本では、我が家から北海道までの自転車旅行。片道15日間、1500キロの行程だった。英国では、ホームステイ先のロンドン南西のボーマスからスコットランドのインバネスまでバスと電車とヒッチハイクの旅だった。米国ではシアトルにいたとき、飛行機でサンフランシスコまで行き、レンタカーでヨセミテ公園まで往復した。2泊3日の旅だった。

結婚してから、一人旅はしなくなった。旅行するなら家族みんな一緒だ。毎年必ず1回は、泊りがけの旅をと、気持ちだけは前向きだ.4年前は、出水の鶴を見物に行った。3年前は、長女(第3子)が生まれたので、どこにも行けなかった。2年前は、春に阿蘇へ行った。昨年は伯母、父の死で喪に服したが、今春はまた阿蘇に出向き、一家5人、2年前と同じ宿に泊まった。

                    【読売新聞 4月25日掲載】


週休2日制は私立校も必要       

1993年4月24日

公立学校で第2土曜日が休みになって8ヶ月目。すっかり定着しつつある。小学2年生の長男がボーイスカウトに入っているが、今までは月に2回、日曜日に集まっていた。今回初めて4月の第2土曜日に集合があった。いい傾向である。

ところで、私は私立高校に勤務しているが、当分、土曜日の休みはなさそうである。英会話の外国人講師から学校の週休2日制について意見を求められると、英語でのやりとりだけに本音が素直に出る。自分の本当の考えと、そしてその考えを公には発表できない自分を外国人講師に打ち明ける。英語という別の言語を介して別人になるわけで、一つの不満解消策だ。新聞投稿もまた私の趣味で、不満解消になる。

教育者は、精神的にも健康であらねばならない。そして、幅広い視野で多様な価値観を理解せねばならない。そなためには、教員としてのゆとり、休養が必要である。

                    【読売新聞 4月30日掲載】


雑巾                      1993年4月28日

気流欄の「雑巾一枚縫えなくても」を読んで、早速受け持ちのクラスの生徒に聞いてみた。自分で縫う生徒と、母親に縫ってもらう生徒と半々であった。さすがに雑巾を買う家庭はなかった。これは、48人に尋ねてみたから、こういう結果が出たわけで1万人に尋ねれば一人くらい、雑巾を買う家庭もあろう。

私自身、中学時代、高校時代、自分でミシンをかけて学校へ持って行ったような気がする。去年も今年も新学年が始まると、妻は小2の長男の為に雑巾作りを夜遅くまでやっていた。春休みの間に事前に作っとけば良さそうなものを、始業式の日に担任の先生から指示があってから事に取りかかったので、夜遅くの仕事となった。

毎年、たいていの学校では雑巾を集めるが、3学期の終業式の時に声かけをしとけば少しはあわてなくて済むかもしれない。


国際貢献                   1993年5月15日

古くから、多くの政治学者の支持を得ている内政不干渉という国際法上の慣習法が今、国際貢献の名の下に国連の主導で壊されている。それは、あたかも、ポーランドの列強分割、中国への列強進出と同じようなものではないだろうか?

国家権力機構としての決定で、カンボジアやモザンビークへのPKO要員で派遣された自衛隊員や警察官は、果たして自分たちの任務にどれだけ誇りを持てるだろうか?分業化の進んだ今日、直接,戦闘をするは、下っ端と下っ端。一体、何の為に血を流すのか?すでに派遣されてしまった人たちは、日本国憲法第9条も、自分たちを守ってくれないことに憤りをもつであろう。自分は自分が守らなければならないといっても、がんじがらめの状況に追い込まれている。

日本の源平合戦のように、大将同士がしっかり名乗りあって戦ってほしいものだ。それこそ、国連の力をもって、「相撲」で強制的に勝ち負けを決めていっても良いのでは。全員参加もあり得よう。そういう方向に国連が動いているなら、私達もしっかり応援(国際貢献)できよう。今のがんじがらめの状況では、国際貢献とは、どうしても呼べない。


目に輝き、女子高校生          1993年5月23日

福岡市の女子高校で教壇に立っているが、週2時間のクラスはなかなか生徒の名前が覚えにくい。「目のきりっとした、そこの人」と注意したら、他の生徒から「JRのポスター知らないんですか」と言われた。あ、そうか、彼女がポスターのモデルなんだ、さすがモデルは目が輝いて背筋がしゃんとしている。

そういえば昨年、パリでの国際バトン大会で世界3位になった生徒も、目が輝いている。彼女らは、いま燃えているんだなあ、と感じた。

                      【読売新聞 5月28日】


PKO即時撤退を!                1993年5月24日

カンボジアで、国連ボランティアの中田さんと、文民警察官の高田さんが殺され、今、「国際貢献」という言葉が大きく取り沙汰されている。西日本新聞の春秋欄での指摘の通り、昔「お国の為」、今「国際貢献の為」、何も言えないような状況になってきていないだろうか?

そして、それ以上に恐いのは、昔「お国のため、そして大東亜共栄圏設立のため」に出兵していたのが、今「国際貢献の為、そして世界平和の為」という名目をつけて出兵していこうとする可能性があることだ。同胞が殺されたから、やり返すという単純思考が恐い。皆が憲法第9条をしっかり想起するべきだ。

内政不干渉が国際政治の原則だ。カンボジア国民は、他国の内政干渉だと思っているに違いない。事実、その通りである。カンボジアの一部指導者たちが国連に協力を要請したとしても、それは国民感情からは浮いているのではないか?


父                       1993年5月28日

「親父みたいなよー、酒飲みなんかにゃー、ならぬつもりがなっていた」という歌詞通りになってしまった。なかなか、自制が効かない。

父は競争心、忍耐力に欠け、短気でお人よし、下駄の販売を生業としていた。私が中学生のとき、担任が家庭訪問に来ると、父は酔っ払っていたが、「この自転車を使いなっせえ。」と勧めていた。又、赤間の祇園祭でのお潮井取りで、さっと川に降りて、お潮井を取っていた。土手は草が茂っていたし、川に入ると濡れるので嫌がる人が多かった。父についての最高の思い出は、裏の溜池で近所の子供がおぼれているのを、どぶ水に浸かって、救助したことだ。お礼にと大きな魚をもらった。私だったら、どぶ水が嫌で、助けに溜池に入ったかどうか、全く、自信がない。

父は、墓地に大きな観音さまを2つ据え、大きな看板に祖先の事跡を書いて掲げていた。自己満足の極みだが、墓守としての父を想うとき、父なりの自己表現だったんだなーと、今、やっと理解している。


東京                       1993年6月10日

高校の修学旅行は、東京と日光が主であった。東京では自由時間が数時間あった。地下鉄に乗って、東京タワーに行って帰った。

2度目の東京は、早稲田大学の受験だった。国鉄の荻窪から降りて、バスに乗って、杉並区の下宿に行くとき、初めてワンマンバスを経験した。スイッチを押すと、降りる者がいるというサインだとは知らなくて、降ろしてもらうのに困惑した。

3度目は、九州大学の学生のとき、友人と2人で片道の切符だけで、早稲田大学の近くの友人の、そのまた友人の下宿に行って寝泊りした。早稲田大学は、学生が占拠していて、大隈講堂と大学の建物には違うセクトが対立し、時々、石の投げ合いがあった。私は寿司屋で夜、働かせてもらって、昼食は早稲田大学の食堂で食べた。学生運動たけなわであったが、食堂は閉鎖もされず、営業していた。

サラリーマン人生は、大阪で過ごしたが、出張で東京に行く機会があり、今教員人生で、生徒と共に修学旅行で3年に1度行く。東京はみんなの都市だ。

教員人生の中で東京都八王子市に出張する機会があって、余った時間の中で、日曜日、ふらっと一人旅で東京駅から皇居まで、そして江戸城の天守閣跡地まで歩いた。皇居の周りはジョギングや自転車乗りが盛んであった。日曜日の散歩に一番いい所ではないだろうか?

(1993年前半終了)   


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